LOGIN一本、足りない。
朱燕の声が、暗い庫の中に落ちた。 棚の陰で息を殺していた私は、黎星様の手に口を塞がれたまま、動けなかった。 庫の中は狭い。 乾いた薬草、古い木箱、銀器を包む油紙の匂い。その隙間に、朱燕の衣から漂う墨のような香と、母の体に染みついた外の町の匂いが混じっていた。 母は、後宮の人間ではない。 少なくとも、私が売られた時はそうだった。 粗末な家で、針仕事と洗い物をして暮らしていた女。冬になると指先を割り、春になると私の髪を雑に結い、夏になると汗を拭いながら「女は美しいうちに売り時が来る」と笑った女。 その人が、今、朱燕の後ろに立っている。 白玉宮側の人間として。 「一本、足りないわね」 朱燕はもう一度言った。 棚の上には、磨かれた銀匙が一本だけ残っていた。 黒ずみのある方は、黎星様の懐にある。 私が皇后様のものだと見分けた、あの銀匙。 それを朱燕たちは消しに来た。 私たちは、ほんの少しだけ早かった。 けれど、その少しが今、命取りになりかけている。 母は灯りを掲げ、棚に顔を近づけた。 「おかしいですねえ。さっきまで二本あったんでしょう?」 「ええ」 「なら、誰かが持っていったんですよ。鼠が」 母の声は、妙に楽しそうだった。 昔からそうだった。 誰かの不幸を直接喜ぶ女ではない。ただ、自分に少しでも得があるなら、人が転ぶのを見て「まあ仕方ないね」と言える女だった。 朱燕が床へ目を落とした。 「足跡は?」 「ございますかねえ」 母が腰をかがめた。 やめて。 こっちを見ないで。 心の中でそう叫んだ。 棚の陰には、薄い埃が積もっている。私たちは気をつけて歩いたつもりだったけれど、完全に跡を消せたわけではない。 母は灯りを低くし、床を覗き込んだ。 「ああ、やっぱり」 背中が凍った。 「ここ、埃が擦れてますよ」 朱燕がこちらへ一歩近づく。 黎星様の手に力がこもった。 もし見つかったら、どうなる。 私だけではない。 黎星様もただでは済まない。 いや、この人なら逃げられるのかもしれない。けれど私は無理だ。下級宮女が、証拠品の保管庫で、皇后様の銀匙を盗もうとしていた。そう言われたら終わりだ。 明霞姉様と同じように、罪人にされる。 「棚の裏を見ますか」 母が言った。 朱燕はしばらく黙っていた。 私は息を止めた。 灯りの揺らぎが、棚の隙間から細く差し込む。朱燕の靴先が見えた。朱の刺繍が入った靴。玉蘭妃様の側に仕える者らしく、下級宮女では一生履けないような上等なもの。 朱燕は、あと半歩踏み出せば私たちに気づく。 その時だった。 庫の外で、小さな物音がした。 何かが落ちた音。 続いて、宦官の声が響いた。 「誰だ」 朱燕が振り返った。 母も灯りを上げる。 庫の外にいた誰かが、慌てて走り去る足音がした。 朱燕は舌打ちした。 「見られたかもしれないわね」 「追いますか」 「いいえ。長居は危険よ」 「でも、銀匙が」 「銀匙は一本ある。足りないなら、足りない理由を作ればいい」 朱燕は棚に残った磨かれた銀匙を手に取った。 「明霞が隠したことにする。それで済むわ」 「なるほど。死人と罪人は便利ですねえ。何でも押しつけられる」 母が笑った。 私の胸の奥で、音もなく何かが折れた。 この人は、私の母だ。 私を産んだ女だ。 それなのに、今、明霞姉様を罪人として利用することを笑っている。 母は私が明霞姉様を慕っていたことを知っているはずなのに。 いや、知っているからこそ、かもしれない。 私が痛む場所を、母はよく知っている。 「鈴花には、明日あたり会わせましょうか」 朱燕の声がした。 「ええ。あの子は母親に弱いですから」 母はため息まじりに言った。 「幼い頃からそうでした。私が少し咳をすれば水を汲みに走り、少し泣けば自分の粥まで差し出す。ああいう子は、可哀想ですね。優しいと、損をする」 朱燕が笑った。 「ずいぶん冷たい母親ね」 「冷たい? まさか。私はあの子のために言っているんですよ」 「娘を売ったのに?」 「後宮に入れたんです。売ったなんて人聞きの悪い。貧しい家で腹を空かせるより、後宮で上手く立ち回った方がましでしょう」 「その娘を、またこちらに差し出すの?」 母は少し沈黙した。 ほんの少しだけ。 その短い沈黙に、私は縋りそうになった。 もしかしたら迷っているのかもしれない。 もしかしたら、母にも少しは罪悪感があるのかもしれない。 そんな愚かな期待は、次の一言で潰れた。 「あの子一人で済むなら、安いものです」 私は、息の仕方を忘れた。 黎星様の手が、さらに強く私の口を塞いだ。 声を出すな。 そう言われなくても、声など出なかった。 朱燕は満足したように言った。 「では、明日。玉蘭妃様の御前で、母娘の情を見せてちょうだい。あの子が何か知っていたとしても、母親に泣かれれば揺らぐでしょう」 「任せてください。鈴花は強情ですが、根は鈍いほど情が深い。そこを突けば、黙ります」 「黙るだけでは足りないわ」 「なら、言わせますよ。明霞が怪しかった、と」 視界が赤くなった。 明霞姉様を。 私に。 母は、私に明霞姉様を売らせるつもりだ。 「娘をよく分かっているのね」 「母ですから」 母は得意そうに笑った。 その言葉が、どんな毒より苦かった。 やがて朱燕と母は庫を出ていった。 扉が閉まる。 鍵がかかる音はしなかった。 足音が遠ざかる。 それでも黎星様はしばらく動かなかった。 庫の中に、暗闇と沈黙だけが残った。 私の口を塞いでいた手が離れる。 息を吸った瞬間、胸の奥が痛んだ。 「声を出すな」 黎星様が囁いた。 「……出ません」 自分の声が、ひどく乾いていた。 「立てるか」 「分かりません」 「なら座っていろ」 私はその場に膝をついた。 泣かなかった。 涙は出なかった。 悲しいのか、悔しいのか、怒っているのか、自分でも分からない。胸の中に大きな穴が空いて、そこから冷たい風が吹き込んでいるようだった。 黎星様は庫の外を確認してから、手燭に火を戻した。 小さな火が揺れる。 その明かりに照らされた黎星様の顔は、いつもより少し険しかった。 「聞くに堪えない話だったな」 「……母は、昔からああです」 「そうか」 「でも」 私は自分の手を見た。 震えている。 「昔は、もう少しだけ、母親でした」 黎星様は何も言わなかった。 その沈黙がありがたかった。 慰められたら、たぶん壊れていた。 母は私を売った。 一度目は後宮に。 二度目は玉蘭妃様に。 でも、私の中にはまだ、幼い頃の記憶がある。 熱を出した夜に、濡らした布を額に置いてくれた手。 祭りの日に、割れた飴を半分くれた声。 髪を結うのが下手で、何度も引っ張られて痛かったけれど、結い終わると「まあ、少しは見られる顔になった」と笑った顔。 あれは全部、嘘だったのだろうか。 それとも、あの少しの情を、母自身がとっくに売り払ってしまったのだろうか。 「鈴花」 黎星様が私の名を呼んだ。 「はい」 「今、あの女を母だと思うな」 私は顔を上げた。 「無理です」 「無理でもそうしろ。母だと思えば揺らぐ。揺らげば、玉蘭妃に食われる」 「あなたは簡単に言いますね」 「簡単ではないから言っている」 「……母なんです」 「そうだな」 「私を売った人でも、母なんです。声も、手も、歩き方も、昔と同じで……なのに、今は明霞姉様を罪人にするために笑っていて」 言葉が詰まった。 泣きたくない。 泣いたら、母のために泣くことになる。 それが悔しかった。 「私、どうしてまだ傷つくんでしょう。あの人が私を守ってくれるなんて、もう思っていなかったはずなのに」 黎星様は少し黙った後、低く言った。 「期待していなくても、傷はつく」 意外な言葉だった。 冷たい人だと思っていた。 正しいことだけを、必要なことだけを言う人だと思っていた。 けれど、その一言は妙に人間らしかった。 「黎星様にも、そういうことが?」 「ある」 「宦官様にも?」 「宦官は人ではないと思っているのか」 「……いえ」 「なら聞くな」 少しだけ、息が漏れた。 笑ったのかもしれない。 自分でも驚いた。 「今、笑ったか」 「笑っていません」 「嘘が下手だな」 「黎星様ほどではありません」 「俺は嘘が上手い」 「自分で言う人は信用できません」 「それでいい」 黎星様は懐の銀匙を確かめた。 「ここを出る。銀匙は俺が預かる。お前は何も持っていない顔で洗衣局へ戻れ」 「母は明日、私に会いに来るのでしょうか」 「来るだろうな」 「逃げた方がいいですか」 「逃げれば怪しまれる」 「では、会うしかない」 「そうだ」 「母に、何を言えば」 「何も知らない娘でいろ」 「またそれですか」 「だが、今度は少し違う」 黎星様は私を見た。 「お前の母は、お前が情に弱いと思っている。なら、その通りの顔をしてやれ」 「母に泣かれたら揺らぐ娘を演じろ、ということですか」 「できるか」 「……できると思います。たぶん」 「たぶんでは困る」 「泣くのは得意です。泣かない方が難しいので」 黎星様が、ほんの一瞬だけ表情を歪めた。 怒ったようにも、困ったようにも見えた。 「お前は、そういうことを平気で言うな」 「平気ではありません」 「なら言うな」 「言わないと、立っていられない時があります」 黎星様は答えなかった。 ただ、庫の扉を少し開け、外を確認した。 「行くぞ」 私は立ち上がった。 足元がふらついたが、倒れはしなかった。 倒れている暇はない。 明霞姉様はまだ生きている。 母は私を売る気でいる。 朱燕は銀匙が一本足りないことに気づいた。 玉蘭妃様は、きっと次の手を打つ。 なら、私も歩かなければならない。 鼠は床を這う。 踏まれないために。 そして、床に落ちたものを見逃さないために。 ◇ 洗衣局へ戻ると、蘭々が釜のそばで待っていた。 いつものように怒鳴りつけてくるかと思ったのに、彼女は私の顔を見るなり、何も言わずに濡らした布を差し出した。 「頬、冷やしな」 「仕事は?」 「私がやった」 「一人で?」 「一人じゃないよ。みんなで。私だって少しは使えるんだから」 蘭々は強がるように鼻を鳴らした。 私は布を受け取り、頬に当てた。冷たい。朝打たれたところがじんと痛んだ。 「ありがとう」 「別に」 「蘭々」 「何」 「もし、明日私の母が来たら」 蘭々の目が丸くなった。 「母? あんたのお母さん? 後宮に?」 「来るかもしれない」 「何それ。どういうこと。あんたのお母さんって、外の人でしょ?」 「うん」 「何しに来るの」 「私を、説得しに」 「何を?」 私は濡れ布を握った。 蘭々には言ってはいけない。 巻き込みたくない。 でも、何も言わなければ、また彼女は危ないところで怒る。 「明霞姉様が怪しかったと、私に言わせるため」 蘭々の顔が一瞬で真っ赤になった。 「はあ!? 何それ! あんたのお母さん、何考えてんの!? 自分の娘にそんなこと言わせる気!?」 「声」 「あ、ごめん。でも無理。声小さくするの無理。何なのそれ、最低じゃん!」 「最低でも、母なの」 そう言うと、蘭々は言葉を詰まらせた。 怒りの火が、少しだけ揺れた。 「……ごめん」 「謝らないで。最低なのは本当だから」 「鈴花」 「うん」 「会いたくないなら、私が追い返す」 あまりにも真剣な顔で言うので、私はつい聞き返した。 「どうやって?」 「えっと……水をぶっかける」 「蘭々」 「じゃあ灰を撒く」 「蘭々」 「釜の蓋で殴る」 「やめて。あなたが捕まる」 蘭々は悔しそうに唇を噛んだ。 「だって、何もできないの嫌じゃん。明霞様の時もそうだった。あの人が連れて行かれて、私たち何もできなくて。今度はあんたのお母さんが来て、あんたを傷つけるって分かってるのに、また黙って見てろってこと?」 「見ていて」 「嫌だ」 「お願い」 私は蘭々の手を握った。 蘭々の手は荒れていた。洗い物で指先が赤くなり、爪の周りが割れている。後宮の妃様方は、こんな手を見たこともないのだろう。 「蘭々には、見ていてほしい。母が何を言うか。誰が一緒にいるか。どの宮の香がするか。何を持っているか。私が見落としたものを、あなたに見てほしい」 「私が?」 「うん」 「私、そんなの分かんないよ。鈴花みたいに覚えられない」 「全部じゃなくていい。変だと思ったことだけでいい」 「変だと思ったことなら、たぶん全部変だよ」 「それでいい」 蘭々は少し黙った。 それから、ぐっと私の手を握り返した。 「分かった。見てる。怒鳴らない。水もぶっかけない。釜の蓋も持たない」 「ありがとう」 「でも、あんたが本当に泣きそうになったら止めるから」 「どうやって?」 「その時考える」 蘭々らしい答えだった。 私は今度こそ、少し笑った。 「何笑ってんの」 「蘭々がいてよかったと思って」 「急にそういうこと言うのやめて。泣くから」 「泣かないで」 「あんたが言うな」 蘭々は袖で目元をこすった。 後宮にいるには優しすぎる子だ。 でも、今の私には、その優しさが少しだけ救いだった。 ◇ 翌朝、母は本当に来た。 洗衣局の裏手にある小さな面会所。 下級宮女に外の家族が会いに来ることなど滅多にない。来るとしても、金の無心か、病人の知らせか、誰かが死んだ報せだ。 だから、洗衣局の者たちは露骨にざわついた。 私は蘭々に目で合図し、面会所へ向かった。 蘭々は少し離れたところで布籠を抱えている。仕事のふりをしているが、耳がこちらを向いているのが分かる。正直すぎる。もう少し隠してほしい。 面会所に入ると、母が座っていた。 昨日庫で見た時と同じ粗末な衣。 ただ、髪だけは妙に綺麗に整えられていた。誰かに結ってもらったのだろう。朱燕か、白玉宮の女官か。 母は私を見るなり、顔を歪めた。 「鈴花」 泣きそうな声だった。 見事だった。 昔から母は、泣くのが上手かった。 「母さん」 私は膝をついた。 母は立ち上がり、私に駆け寄った。そして両手で私の頬を包む。 「ああ、痩せたねえ。こんなに痩せて……後宮ではちゃんと食べさせてもらっているのかい?」 母の手は荒れていた。 昔と同じ手だった。 その手に触れられた瞬間、胸の奥が勝手に震えた。 駄目。 揺らいでは駄目。 この人は昨日、私を安いものだと言った。 「あたたかいお粥はいただいています」 「お粥? そんなものばかりじゃ体がもたないよ。あんたは昔から細かったんだから」 「母さんこそ、お元気でしたか」 「元気なものかね」 母はそこで涙を浮かべた。 「娘を後宮に入れてから、母さんはずっと心配で心配で……夜もろくに眠れなかったよ」 嘘。 そう思った。 でも、言わなかった。 母は私の手を握り、わざとらしく声を落とした。 「鈴花。大変なことになったねえ。皇后様が亡くなって、明霞様が捕まったって聞いたよ」 「はい」 「あの方には、世話になっていたんだろう?」 「洗衣局の者として、お仕えする機会はございました」 母は目を細めた。 昨日朱燕に聞かされた答えと違うかを確かめているのだろう。 「固い言い方をするんじゃないよ。母さんには本当のことを言いなさい。あんた、あの人に懐いていたんだろう?」 「……はい」 「かわいそうに」 母は私を抱き寄せた。 昔と同じ匂いがするかと思った。 でも違った。 母からは、白玉宮の香がした。 玉蘭妃様の香。 甘く、冷たく、喉に引っかかる匂い。 私は母の肩越しに、面会所の入り口を見た。 蘭々が布籠を抱えて、ちらりとこちらを見ている。 見ていて。 私は心の中で言った。 この香を。 この嘘を。 「ねえ、鈴花」 母が耳元で囁いた。 「明霞様は、本当に何もしていなかったのかい?」 来た。 「私には、分かりません」 「分からない? そんなはずないだろう。あんたは目がいい。昔から、余計なものまでよく見る子だった」 「母さん」 「母さんはね、あんたを守りに来たんだよ」 母は体を離し、涙を浮かべたまま私の両手を握った。 「玉蘭妃様はお優しい方だ。あんたが正直に話せば、守ってくださる。明霞様が怪しかったこと。何か隠していたこと。皇后様の薬湯に関わっていたこと。見たままを言えばいい」 「見たまま」 「そうだよ。あんたが見たまま」 母は私の手を強く握った。 痛い。 「母さんは知っているよ。明霞様はあんたに何か渡したんじゃないかい?」 簪。 袖の中にはない。 今は洗衣局の梁の隙間に隠してある。 持ってこなくてよかった。 「何のことでしょう」 「とぼけるんじゃないよ」 母の声が低くなった。 一瞬で泣き顔が消えた。 これが本当の母だ。 昔もそうだった。 人前では泣き、私と二人になると声が冷たくなる。 「鈴花。あんた、自分がどんな立場か分かってるのかい? 皇后様が死んだんだよ。上の方々が誰かを罪人にすると決めたら、下級宮女なんて虫けらみたいに潰される。母さんは、それを避ける道を持ってきたんだ」 「明霞姉様を犯人だと言えば、私は助かるのですか」 「助かるよ」 「誰がそう言ったのですか」 母は一瞬黙った。 「玉蘭妃様だよ」 やはり。 「玉蘭妃様が、あんたを憐れんでくださっている。明霞様に利用された哀れな下級宮女として、罪には問わないと」 「私は、明霞姉様に利用されたのですか」 「そうだろう? あの方は上級女官だ。あんたみたいな下級に優しくする理由なんて、利用するために決まってる」 その言葉は、すでに私の中に刺さっていた。 明霞姉様自身が、最後に言っていたから。 私も最初は、あなたを使うつもりだった。 でも。 だからといって、母にそれを踏みにじらせていい理由にはならない。 「母さんも、私を利用するのですか」 母の顔が歪んだ。 「何てことを言うんだい」 「昨日、白玉宮の方と一緒にいましたか」 「昨日?」 「皇后宮の庫へ行きましたか」 母の手が、私の手首に食い込んだ。 痛い。 けれど、私は顔を変えなかった。 母は低く言った。 「あんた、何を見た」 「何も」 「嘘をつくんじゃない」 「母さんも、私に嘘をついています」 母の目に怒りが浮かんだ。 「親に向かって、その口の利き方は何だい」 「親なら、娘に明霞姉様を売らせますか」 母は私を睨んだ。 それから、ふっと笑った。 泣き顔でも、怒り顔でもない。 疲れた女の顔だった。 「あんたは本当に甘いねえ」 「……甘い?」 「そうだよ。明霞様。明霞姉様。姉様、姉様って。あの女が本当にあんたを妹みたいに思っていたとでも?」 「思っていなかったとしても」 「ほら、そこだよ」 母は私の額を指で突いた。 「思っていなかったとしても、なんて言えるところが甘いんだ。利用されても、最後に少し優しくされれば許す。売られても、昔少し粥を分けられたことを覚えている。そういうところが駄目なんだよ、鈴花」 私は何も言えなかった。 母は言い続けた。 「母さんはね、あんたを後宮に売った時も泣いたんだよ。でも仕方なかった。家には金がなかった。あんたを食わせる余裕もなかった。だったら、少しでも良い場所にやるしかないじゃないか」 「良い場所?」 「少なくとも、屋根はある。飯も出る」 「母さんは、そのお金で何をしましたか」 母の顔が強張った。 「何?」 「私を売ったお金で、弟の薬を買ったと聞かされました。でも弟は、その前の冬に死んでいましたよね」 ずっと聞けなかったことだった。 後宮に入ってから、人づてに知った。 母が私を売った金で、新しい衣を買っていたこと。賭場に出入りする男に貢いでいたこと。弟はとうに死んでいて、薬代など必要なかったこと。 母は唇を震わせた。 「あんた、誰にそんなことを」 「誰でもいいでしょう」 「親の苦労も知らないで」 「知りたかったです」 私は静かに言った。 「母さんが本当に苦しかったなら、そう言ってほしかった。私を売るしかなかったなら、そう言ってほしかった。嘘をついて、私に納得したふりをさせないでほしかった」 「綺麗事を言うんじゃないよ!」 母の声が大きくなった。 面会所の外で、蘭々が動く気配がした。 私は母から目を逸らさなかった。 「女が生きるにはね、誰かを売るしかない時があるんだよ! 私だって売られたかった。後宮に入りたかった。妃様のように綺麗な衣を着て、香を焚いて、誰かに大事にされたかった。でも駄目だった。顔が足りない、家が足りない、品が足りないって笑われた。だからせめて、あんたを入れたんだ」 「私のためではなく、母さんのためですね」 母の手が飛んだ。 頬を打たれた。 今度は、朝の女官より痛かった。 痛みよりも、母の手だったことが痛かった。 「親を責めるのかい」 「責めています」 私は打たれた頬を押さえずに言った。 「初めて、ちゃんと責めています」 母は息を荒くした。 「鈴花。いい加減にしな。玉蘭妃様に逆らえば、あんたは死ぬよ。明霞様の次はあんただ。母さんはそれが嫌だから」 「私が死ぬのが嫌なのですか。それとも、玉蘭妃様からいただいたお金が無駄になるのが嫌なのですか」 母の顔が真っ赤になった。 「この、恩知らずが」 「はい」 私は頷いた。 「私は恩知らずになります。母さんが私を売って得た恩など、もう返しません」 母は私を睨んだ。 けれど、その奥に恐れがあった。 私が折れないことに気づいたのだ。 「後悔するよ」 「もうしています」 「鈴花」 「母さんを信じたことを」 母の唇がわずかに開いた。 言い返してくると思った。 また泣くと思った。 でも、母は何も言わなかった。 その代わり、懐から小さな包みを取り出した。 白い紙に包まれたもの。 「これを、玉蘭妃様から」 「何ですか」 「明霞様の罪を証言する文だよ。あんたは字が書けるだろう。ここに名を書きな」 母は包みを開いた。 中には、すでに書かれた文書があった。 内容はひどいものだった。 明霞姉様が皇后様の薬湯に関わっていた。 最近様子がおかしかった。 夜中に白玉宮の周りをうろついていた。 私がそれを見た。 全部、嘘。 その末尾に、私の名を書く欄がある。 鈴花。 母は筆を差し出した。 「書きなさい」 私は文書を見た。 そして、筆を受け取った。 母の顔に安堵が広がる。 外で蘭々が息を呑む気配がした。 私は筆先を墨に浸した。 文書の上に置く。 母が囁く。 「そう。それでいいんだよ。あんたは賢い子だ。長生きしたいだろう?」 玉蘭妃様と同じ言葉。 賢い子は、長生きしたいでしょう? 私は筆を動かした。 ただし、署名欄ではなく、文書の中央に。 大きく、一文字。 偽。 母が目を見開いた。 「な……」 私はもう一文字書いた。 証。 偽証。 墨が紙に滲む。 私は筆を置いた。 「これなら書けます」 母の顔から血の気が引いた。 「あんた、自分が何をしたか分かっているのかい」 「はい」 「玉蘭妃様に逆らったんだよ!」 「違います」 私は文書を畳み、母の手に押し返した。 「玉蘭妃様が私に偽証を命じた証拠を、母さんが持ってきてくださったのです」 母の手が震えた。 「鈴花……あんた……」 「母さん」 私は初めて、母をまっすぐ見た。 「私、もう売られません」 面会所の外で、蘭々が小さく息を吐いた。 母は文書を握りしめたまま立ち上がった。 泣き顔は消えていた。 そこにいたのは、娘を失った母ではない。 売り物が思い通りに動かず、損をした商人の顔だった。 「後悔するよ」 「ええ」 私は頭を下げた。 「するとしたら、私を二度売った母さんの方です」 母は何か言いかけた。 けれど、言葉にならなかった。 そのまま乱暴に戸を開け、出ていく。 白玉宮の香が、面会所に取り残された。 私はその場に座ったまま、しばらく動けなかった。 蘭々が駆け込んでくる。 「鈴花!」 「蘭々、声」 「声とか言ってる場合じゃないって! あんた今、すっごいことしたよ!? 大丈夫!? いや大丈夫なわけないよね!? 頬も叩かれたし、文書に偽証って書いたし、どうするのあれ!」 「見てた?」 「見てた。全部じゃないけど、見てた。お母さん、白玉宮の香がした。あと、文書を出す時、袖から赤い糸が落ちた」 赤い糸。 皇后宮の庫に落ちていたものと同じ。 私は顔を上げた。 「蘭々、それはどこに」 「拾ってないよ。鈴花が余計なもの拾うなって言ってたから。でも見た。赤くて、金が少し混じってた」 よかった。 見ていてくれた。 私はようやく息を吐いた。 「ありがとう」 「お礼言ってる場合じゃないでしょ。これ、玉蘭妃様に伝わるよ。絶対伝わる。あんた、殺されるかもしれない」 「うん」 「うんじゃない!」 蘭々は泣きそうな顔で怒った。 「なんでそんな落ち着いてるの! 怖くないの!?」 「怖い」 「じゃあもっと怖がってよ!」 「今怖がったら、立てなくなる」 蘭々は言葉を失った。 私は壁に手をついて立ち上がった。 足は震えている。 でも、倒れなかった。 母に二度売られた。 それでも、私は売り物ではなかった。 それを、ようやく自分で決めた。 ◇ その夜、明霞姉様の処刑が決まった。 知らせは、喪鐘より静かに広がった。 皇后毒殺の罪。 証拠隠滅の罪。 皇帝陛下への反逆の罪。 罪状は重く、慈悲はなかった。 処刑は明朝。 あまりにも早い。 早すぎる。 私は黎星様に会うため、乾燥室へ向かった。 黎星様はすでにいた。 私を見るなり、低く言った。 「何をした」 どうやら、もう知っているらしい。 「偽証文書に、偽証と書きました」 「馬鹿か」 「はい」 「なぜそんなことをした」 「母に、私がもう売れない品だと教えたかったので」 「感情で動くなと言ったはずだ」 「動きました」 「鈴花」 黎星様の声が鋭くなる。 「お前の一筆で、玉蘭妃はお前を始末する理由を得た」 「でも、玉蘭妃様が偽証させようとしたことも残りました」 「あの文書をお前が持っていないなら証拠にならない」 「母が持っていきました」 「なお悪い」 「でも、蘭々が見ました」 「下級宮女の証言がどれだけ弱いか、まだ分からないのか」 「分かっています」 「分かっていて、なぜ」 「私が、私を売らないためです」 黎星様は黙った。 私は続けた。 「明霞姉様は死ぬかもしれません。皇后様はもう亡くなりました。母は私を売りました。玉蘭妃様は私を脅しました。あなたは私を道具だと言いました」 黎星様の眉が動いた。 「でも、私まで私を道具にしたら、本当に何も残らない」 乾燥室の中に、沈黙が落ちた。 古い木の隙間から、夜風が入る。 黎星様は長く黙ってから、低く言った。 「……お前は危うい」 「知っています」 「だが」 彼は小さな油紙の包みを取り出した。 「銀匙の黒ずみを調べた。毒の反応がある。香にも同じ成分が混じっていた可能性が高い」 私は息を呑んだ。 「明霞姉様を助けられますか」 「今の証拠だけでは無理だ」 「そんな」 「だが、玉蘭妃の偽装懐妊を崩せれば、皇后毒殺の動機が立つ」 「明日の朝までに?」 「無理だ」 あまりにも冷たい現実だった。 私は拳を握った。 「では、明霞姉様は」 「処刑される」 視界が揺れた。 分かっていた。 でも、聞きたくなかった。 「助ける方法は、本当にないのですか」 黎星様は私を見た。 その目に、わずかな迷いがあった。 「一つだけある」 「何ですか」 「明霞が、処刑台で何を言うかだ」 「どういう意味ですか」 「死ぬ者の言葉は、時に生きている者の証言より重い。明霞が最後に誰の名を出すか。何を残すか。それによって、後宮の空気が変わる」 「姉様を、死なせる前提ではありませんか」 「そうだ」 私は黎星様を睨んだ。 今度は隠さなかった。 「あなたは、本当に冷たい」 「冷たくなければ、ここでは生き残れない」 「私は、そんなふうにはなりたくありません」 「なら、別のやり方で生き残れ」 黎星様はまっすぐ言った。 「泣いてもいい。怒ってもいい。母を憎んでもいい。明霞を信じても疑ってもいい。だが、生き残れ。お前が見たものを、誰かが覚えていなければならない」 私は言葉を失った。 それは命令のようで、願いのようにも聞こえた。 「黎星様」 「何だ」 「あなたは、なぜそこまで皇后様の死を追うのですか」 黎星様の顔から表情が消えた。 触れてはいけない場所に触れたのだと分かった。 けれど、もう引けなかった。 「あなたは宦官なのに、内侍省の者なのに、まるで外朝の政にまで通じているようです。皇后様の銀匙も、偽装懐妊の意味も、私よりずっと分かっている。あなたは何者なのですか」 黎星様は長く沈黙した。 そして、言った。 「今は、お前の味方ではない者だ」 「今は?」 「それ以上は聞くな」 「いつか答えてくださいますか」 「お前が生きていればな」 その答えはずるいと思った。 でも、私は頷いた。 「では、生きます」 「簡単に言うな」 「簡単ではありません。だから言っておきます」 黎星様は目を伏せた。 そして、小さな包みを私に渡した。 「これは?」 「明霞に渡せ」 「会えるのですか」 「処刑前の罪人に、最後の水を運ぶ役が必要になる。下級宮女なら疑われにくい」 「私が行けるのですか」 「手配する」 私は包みを握った。 「中身は」 「白紙だ」 「白紙?」 「明霞が何かを書けるなら書かせろ。無理なら、握らせるだけでいい」 「なぜ白紙を」 「最後に何も残せなかった者は、死んだ後に好き勝手な言葉を押しつけられる」 黎星様の声は低かった。 「明霞の言葉を、明霞のものとして残せ」 胸が詰まった。 私は包みを大切に袖へ入れた。 「必ず」 「泣くなよ」 「泣きません」 「声を荒らげるな」 「努力します」 「努力では困る」 「では、命に代えて」 「それも困る」 思わず顔を上げた。 黎星様はそっぽを向いた。 「お前が死ぬと、証人が減る」 「……そうですね」 「そうだ」 ひどい言い方だった。 でも、なぜか少しだけ胸が温かくなった。 この人は不器用なのかもしれない。 そう思いかけて、私はすぐに打ち消した。 誰も信じるな。 黎星様自身がそう言ったのだから。 ◇ 夜明け前。 私は水差しを持って、明霞姉様が閉じ込められている牢へ向かった。 牢は後宮の北端にある。 表向きには病人用の隔離房とされているが、実際には妃や女官の罪を内々に処理するための場所だと聞いたことがある。 石の廊下は冷たく、湿っていた。 明霞姉様は、奥の牢にいた。 最初、誰か分からなかった。 髪は乱れ、衣は汚れ、頬には痣があった。 それでも、背筋だけは伸びていた。 明霞姉様だった。 「……鈴花?」 声が掠れている。 私は格子の前に膝をついた。 「水を、お持ちしました」 「あなたが来てしまったの」 「はい」 「馬鹿ね」 明霞姉様は弱く笑った。 いつものように叱る声だった。 私は水差しを差し入れた。 明霞姉様は両手で受け取り、少しだけ飲んだ。 「蘭々は?」 「怒っています」 「でしょうね」 「泣きそうです」 「それもでしょうね」 明霞姉様は目を伏せた。 「あの子は優しいから」 「姉様もです」 「私は違うわ」 即座に否定された。 私は袖から白紙を出した。 「黎星様からです。何か、残すことがあれば」 明霞姉様の目が揺れた。 「黎星が」 「はい」 「あの人、相変わらず嫌な優しさをするのね」 「姉様も、黎星様をご存じなのですか」 「少しだけ」 明霞姉様は白紙を受け取った。 指が震えている。 でも、紙を持つ姿は美しかった。 「鈴花。簪は?」 「無事です」 「中は見た?」 「はい」 「そう」 明霞姉様は安堵したように息を吐いた。 「ごめんね」 また謝罪。 私は首を振った。 「謝らないでください」 「謝らせて。私はね、最初からあなたを見ていたの」 「……皇后様のために?」 「ええ」 分かっていたはずなのに、胸が痛んだ。 明霞姉様は続けた。 「洗衣局に、妙に記憶のいい子がいると聞いた。誰がどの衣を着たか、香の違い、汚れの種類、門を通った時刻まで覚えている子。皇后様は、その目を必要とされた」 「私は、最初から証人だったのですね」 「そう」 明霞姉様は逃げなかった。 「あなたを妹のように可愛がったのも、最初は近づくためだった」 言葉が刺さる。 でも、昨日ほど深くはなかった。 もう知っていたから。 「では、途中からは?」 明霞姉様は私を見た。 「途中からは、本当に妹みたいだったわ」 その声があまりに優しくて、私は泣きそうになった。 「信じてもいいのですか」 「信じなくていい」 「姉様」 「鈴花。信じるかどうかを急いでは駄目。人は一つではないの。私はあなたを利用した。あなたを可愛いとも思った。どちらも本当よ」 明霞姉様は、白紙を膝に置いた。 「玉蘭妃も同じ。あの女は皇后様を殺した。でも、たぶん、あの女も何かに追い詰められていた。だからといって、許されるわけではないけれど」 「私は許しません」 「それでいい」 明霞姉様は微笑んだ。 「許さなくていい。でも、見るのをやめないで。憎むと、人は見たいものだけ見るようになる。皇帝陛下のように」 皇帝陛下。 玉蘭妃様の肩を抱いていた人。 皇后様の死よりも、寵妃の涙を見ていた人。 「陛下は、玉蘭妃様を疑っていません」 「疑いたくないのよ」 「それは罪ですか」 「時にはね」 明霞姉様は疲れたように目を閉じた。 「毒を盛った手だけが人を殺すわけじゃない。見ない目も、聞かない耳も、黙る口も、人を殺すの」 私はその言葉を胸に刻んだ。 見ない目。 聞かない耳。 黙る口。 私は黙っている。 それも罪なのだろうか。 明霞姉様は私の迷いを見抜いたように言った。 「あなたは今、黙って生きなさい。いつか言うために」 「いつか」 「ええ。床を這ってでも生きて、いつか、あの女の前で言いなさい。皇后様を殺したのは、あなたです、と」 私は格子を握った。 「姉様も一緒に」 明霞姉様は悲しそうに笑った。 「私は行けないわ」 「まだ決まっただけです。何か、何か方法が」 「鈴花」 「嫌です」 「鈴花」 「嫌です。私はまだ、姉様に怒っています。利用されたことも、黙っていたことも、全部怒っています。だから、死んで終わりにしないでください。私、ちゃんと怒りたいんです。姉様に、何で私を巻き込んだのか、何で一人で背負ったのか、何で最後に優しくするのか、全部聞きたいんです」 声が震えた。 泣かない。 泣きたくない。 でも、涙がにじむ。 明霞姉様は格子越しに手を伸ばし、私の指に触れた。 「ごめんね」 「謝らないでって言ったのに」 「最後くらい、聞き分けの悪い姉でいさせて」 「姉様は、いつも聞き分けが悪いです」 「そうだった?」 「そうです。洗衣局の布の畳み方にまで口を出して、蘭々がいつも陰で真似していました」 「まあ」 明霞姉様は少し笑った。 その笑い方が、いつもの明霞姉様で。 私は本当に泣きそうになった。 明霞姉様は、白紙に震える手で文字を書いた。 短い文だった。 『私は皇后様を殺していない。鈴花、見たものを忘れないで。けれど、あなたの命を復讐の薪にしないで』 最後の字は少し乱れていた。 明霞姉様は紙を折り、私に差し出した。 「持っていきなさい」 「はい」 「それから、鈴花」 「はい」 「あなたのお母様が来るわ」 私は息を止めた。 「もう来ました」 「そう」 明霞姉様は目を伏せた。 「傷ついた?」 「はい」 「そう。なら、まだあなたは大丈夫」 「どういう意味ですか」 「本当に壊れたら、傷つかなくなるから」 私は唇を噛んだ。 明霞姉様は静かに言った。 「母親を許さなくていいわ。でも、母親を憎むためだけに生きては駄目。あなたの人生が、あの人に縛られてしまう」 「難しいです」 「難しいわね」 「姉様は簡単みたいに言います」 「私もできなかったもの」 明霞姉様は少しだけ笑った。 「だから偉そうに言っているの」 牢の外で足音がした。 時間だ。 私は紙を袖にしまった。 「姉様」 「鈴花」 明霞姉様は、格子越しに私を見た。 痣だらけの顔で。 それでも、凛として。 「生きなさい」 私は何度も聞いたその言葉に、今度こそ頷いた。 「はい」 「いい返事」 「姉様」 「何?」 「私、あなたを信じすぎません」 明霞姉様は目を見開いた。 私は続けた。 「でも、あなたの最後の言葉は信じます」 明霞姉様の目に、初めて涙が浮かんだ。 「……本当に、賢い子」 「その言葉、最近嫌いです」 「そうね。では、強い子」 「それもまだ分かりません」 「なら」 明霞姉様は微笑んだ。 「これから強くなりなさい」 足音が近づく。 私は立ち上がった。 振り返りたくなかった。 でも、振り返った。 明霞姉様は格子の向こうで、背筋を伸ばして座っていた。 罪人ではなく。 皇后宮の上級女官として。 私の、聞き分けの悪い姉として。 ◇ 朝が来た。 後宮の空は薄く白んでいた。 処刑場は、後宮の北門近くに作られていた。公の場ではない。内々の処分。けれど、妃や女官たちには見せるための処刑だった。 見せしめ。 明霞姉様を罪人にするための舞台。 私は下級宮女たちの列の端にいた。 蘭々が隣で震えている。 「鈴花」 「うん」 「私、やっぱり無理かも。怒鳴るかも」 「駄目」 「分かってる。でも無理かも」 「手を握って」 蘭々は私の手を握った。 痛いほど強く。 その時、明霞姉様が連れてこられた。 白い囚衣。 乱れた髪。 でも、歩き方はまっすぐだった。 玉蘭妃様は少し離れた席にいた。 皇帝陛下の隣ではない。 だが、誰よりも美しく、誰よりも悲しそうな顔で座っている。 母もいた。 朱燕の後ろに控えている。 私を見た。 その目には、怒りと怯えが混じっていた。 私は目を逸らさなかった。 役人が罪状を読み上げる。 皇后毒殺。 反逆。 証拠隠滅。 すべて嘘。 明霞姉様は黙って聞いていた。 最後に、役人が問う。 「最後に申し開きはあるか」 場が静まり返った。 玉蘭妃様が袖で口元を押さえる。 母がわずかに身を乗り出す。 朱燕が目を細める。 明霞姉様は顔を上げた。 そして、よく通る声で言った。 「私は皇后様を殺しておりません」 ざわめきが起きた。 役人が怒鳴る。 「罪人が、今さら何を」 「ですが」 明霞姉様は声を張った。 「皇后様を殺した者が、この後宮にいることを、私は知っています」 空気が凍った。 玉蘭妃様の顔から、ほんの一瞬だけ悲しみが消えた。 明霞姉様は続けた。 「毒は薬湯だけにあるのではありません。香に、器に、証言に、そして陛下の寵愛の影に隠れております」 皇帝陛下が立ち上がりかけた。 玉蘭妃様が咳き込む。 場が乱れる。 役人が叫んだ。 「黙らせろ!」 兵が明霞姉様に近づく。 その瞬間、明霞姉様は私の方を見た。 目が合った。 口元が動いた。 声は届かなかった。 でも、分かった。 見て。 私は見た。 明霞姉様の最後の姿を。 玉蘭妃様の一瞬の顔を。 朱燕の指が震えたことを。 母が視線を逸らしたことを。 皇帝陛下が何かを疑いかけ、それでも玉蘭妃様を見たことを。 そして。 刑が執行された瞬間、蘭々が私の手を痛いほど握り、声を殺して泣いたことを。 私は泣かなかった。 泣けなかった。 ただ、目を開けていた。 明霞姉様。 見ました。 忘れません。 あなたが死んだ朝、後宮の誰がどんな顔をしていたか。 全部。 私の目の奥に、隠しました。 そしてその日から、後宮の喪布は白ではなくなった。 私には、すべてが毒の色に見えるようになった。白啓を死なせてはいけない。 そう決まった瞬間、部屋の空気はひどく嫌なものになった。 人を売った男。 母たちを壊した男。 白家の腹の底で、帳と香と名前を使い、人の人生に値をつけ続けた男。 その男を、必死に生かさなければならない。 白啓が死ねば、死帳の第二封が開く。 何が起きるか分からない。 分からないからこそ、止めなければならない。 人間というものは、時々、正しさとは別のところで胃が痛くなる。「……水を」 老医官様の声が飛んだ。 医療房の奥、白啓が運び込まれた部屋には、すでに数人の医官と薬童が走り回っていた。 白啓は寝台に横たえられている。 顔色は悪い。 唇も薄く、呼吸は浅い。 だが、完全に意識を失っているわけではない。 時折、まぶたが動く。 まるで、自分がどれほど周囲を慌てさせているか、確認しているようだった。 嫌な老人だ。 本当に、嫌な老人だ。「鈴花、顔」 蘭々が横から小声で言った。「顔色ですか」「顔も顔色も」「最近、そればかりです」「だって鈴花、白啓を見て『この人を助けるの嫌だな』って顔してる」「しています」「隠さないんだ」「隠す余裕がありません」 蘭々は、少しだけ困った顔をした。「私も嫌だよ」「はい」「でも死なれたら困る」「はい
白啓のいる隔離室は、朝でも薄暗かった。 窓は細く、香炉はない。 壁際には水桶。 扉の両側には兵。 床には、老医官様が撒いた白い粉が薄く残っていた。 毒や香の粉が落ちれば分かるようにするためだという。 その粉の上に、白啓の足跡はない。 彼は椅子に座らされている。 手足を拘束されている。 それでも、あの老人は相変わらず客人のような顔をしていた。「おはようございます」 白啓は言った。「ずいぶん大勢で。朝の挨拶にしては、物々しい」 誰も返さなかった。 景黎様は私の台車の横に立っている。 蘭々は梨花の手を握っている。 白瑛は帳を抱えている。 老医官様は薬箱を持っている。 景蘭様は輿の中。 皇帝陛下も来ていた。 梨花は、蘭々の手を握ったまま白啓を見ていた。 顔色は変わらない。 だが、手は冷たいらしい。 蘭々が何度も握り直していた。「白啓」 皇帝陛下が口を開く。「この子について聞く」 白啓の目が、梨花へ移った。 ほんの少しだけ。 本当にわずかに。 だが、いつもの白啓ではなかった。 人を見る時の、値踏みする目ではない。 帳を見る目でもない。 もっと嫌な目だった。 大切な品を、他人の手に触れられている時の商人の目。「梨花」 白啓は、柔らかく呼んだ。 梨花の肩が跳ねた。 蘭々がすぐに言
月琴は、泣きながら叫んでいた。「その子は梨花じゃない! 梨花は死んだ! 私が見たの、白家の地下で、梨花は死んだの!」 医療房の奥にある小さな部屋。 そこへ連れてこられた月琴は、以前より痩せていた。 玉蘭妃様を美しい主として崇め、白玉宮の香を守り、春燕の腹帯を焼こうとした少女。 白家の子の帳では、覚醒済み。 感情過多、制御困難。 そんな冷たい文字で書かれていた少女。 その月琴が、今は感情そのもののように震えている。 両手は縛られている。 だが、縛られていなければ梨花に掴みかかっていただろう。 いや。 梨花と呼ばれた少女に。「月琴」 白瑛が静かに呼んだ。「落ち着いて」「落ち着けるわけないでしょう!」 月琴は白瑛を睨んだ。「あなたも白家でしょう? 知っているでしょう? 梨花は処分された。帳守のくせに帳を盗み見て、白啓様の怒りを買って、香庫の奥へ連れて行かれた。戻らなかった!」 梨花と名乗った少女は、私の寝台のそばで立っていた。 顔色は変わらない。 変えないようにしている。 小さな手が、赤い紐を握っている。 だが、さっきより指が白い。「私は梨花です」 少女は言った。 抑揚のない声。「帳に、そうあります」「嘘!」 月琴が叫ぶ。「帳に書けば、死んだ子が生き返るの!? 白家はそういうことをする。死んだ名を、次の子に貼るの。あなたは梨花じゃない。あなたは……」 月琴は言葉を詰まらせた。 その先
その少女は、赤い紐を握っていた。 細い指。 爪は短く切られている。 汚れはない。 けれど、手は子供の手ではなかった。 正確に言うと、子供の形をしているのに、子供らしくない手だった。 誰かに甘えるために伸ばされた手ではない。 物を落とさないように握る手。 命令された帳を燃やすために、火を扱う手。 白家最後の帳守。 少女は、そう名乗った。「白啓様が、死ぬ前に燃やせと命じた帳を持ってきました」 私は寝台の上で、その赤い紐を見ていた。 白蓮の飾り。 小さい。 玩具のように見える。 でも、玩具ではない。 帳の封印だ。 後宮にまだ残っている白家の子の帳。 白家の血。 白家の子。 その言葉だけで、部屋の温度が下がった気がした。 蘭々が、私と少女の間に半歩入る。 景黎様なら一歩で立ちはだかる。 蘭々は半歩。 相手が子供だからだ。 守りたいけれど、怖い。 怖いけれど、いきなり敵にしたくない。 その半歩が、蘭々らしかった。「あなた、名前は?」 蘭々が聞いた。 少女は答えなかった。 ただ、蘭々を見た。 大人びた目。 いや、大人びているというより、幼さをどこかで置いてきた目。「名前」 蘭々は、もう一度聞いた。「呼ばれたい名前でいいよ。本当の名前じゃなくても。鈴花がさっき、そう言ってた」 少
白啓。 その名が、また私たちの前に置かれた。 母を買った男。 父に名を貸した男。 柳家の床下へ白家の腹を隠した男。 景蘭様の母、瑠華妃様を壊した還子茶の道を知る男。 そして今度は、皇后静寧――小燕の父だという。 私は、しばらく何も言えなかった。 小燕。 燕珠の娘。 白家に売られた子。 沈氏へ渡され、名を変えられ、皇后になった人。 その父が、白啓。 白家そのもののような老人。 自分の娘に値をつけた男。 いや。 父と呼んでいいのかさえ、分からない。「……白啓が」 蘭々が、布を握りしめたまま呟いた。「皇后様のお父さん?」 白瑛は頷いた。 顔色が悪い。 白瑛はいつも白い。 けれど今は、白いというより血の気が抜けていた。「芳婆の札には、そうあります」「札だけでは断定できぬ」 景黎様が言った。 声は冷静だった。 けれど、指先は少し強く握られている。「白家の帳、芳婆の証言、燕珠の記録、白啓本人の証言。全部を合わせて確認する」「はい」 白瑛は答えた。 けれど、その声は少し遠かった。 私は白瑛を見た。「白瑛」「はい」「大丈夫ですか」 聞いた後で、少し変な問いだと思った。 大丈夫なわけがない。 白瑛は皇后様に仕えていた。
『皇后静寧の本当の出自を返してほしい』 その札は、薄い木片だった。 安物の木を削って作った仮札。 そこに震えた字で、そう書かれていた。 皇后様の名。 静寧。 この後宮で、誰もが知っているはずの名。 亡くなってからも、白く美しい帳の上に置かれ続けた名。 けれど、その札を書いた誰かは言った。 本当の出自を返してほしい、と。 つまり。 まだ、皇后様の名にも嘘がある。 私は、その札をしばらく見つめていた。 見つめているうちに、木目が目に入る。 仮札の端に、小さな欠け。 指で強く握った跡。 墨が一か所、滲んでいる。 泣きながら書いたのか。 それとも、水仕事で荒れた手だったのか。「鈴花」 景黎様が低く呼んだ。「顔が悪い」「最近、ずっと悪い気がします」「体調の話だ」「顔そのものではなく?」「そこは今どうでもいい」「今でなくても気になります」 蘭々が横で頷いた。「鈴花の顔は悪くないよ。疲れてるだけで」「ありがとう、でいいの?」「いい」 景蘭様が輿の中から、弱った声で笑った。「褒め方まで洗衣局は実用的だね」「景蘭様は黙っていてください。まだ顔色が土器です」「土器」「乾いた土器」「せめて陶器にしてくれ」「艶がないので」「ひどい」 景黎様が景蘭様へ視線を投げる。







